夢の中でだけ帰れる町が、現実の故郷よりも変わらずに待っているとしたら。その町は救いになるのでしょうか。それとも、目覚めて生きる場所を遠ざけてしまうのでしょうか。H・P・ラヴクラフトの短編『セレファイス』は、まばゆい港町への帰還を通じて、この境目を揺さぶる作品です。
セレファイス(Celephaïs)は、作品に登場する架空の都市です。土地に伝わる怪異や、発見された古代都市を報告した記録ではありません。本記事では英語原典をもとに、都市の特徴と主人公クラネスの旅を整理します。後半では結末にも触れます。
セレファイスの基本情報
原題は “Celephaïs”、作者はH・P・ラヴクラフトです。作品名と都市名が同じで、物語はロンドンに暮らす孤独な男性を中心に進みます。The H. P. Lovecraft Archiveの書誌情報では、初出は『The Rainbow』第2巻第2号、1922年5月と確認できます。
主人公のクラネス(Kuranes)という名も、夢の中で得た名前です。冒頭では、起きているときには別の名で呼ばれていたことが明記されます。そのため、クラネスを最初から現実世界の本名と考えると、夢が彼に別の居場所と自己を与える構成が見えにくくなります。
クトゥルフ神話に関心のある読者にもつながるラヴクラフト作品ですが、この短編の中心にあるのは、巨大な怪物の襲撃ではありません。失った過去、夢の中の美、そして生活から孤立していく人間の姿です。まずは本作自体の記述に沿って読むと、その独特の怖さが伝わります。
幼年期の一時間と、過ぎ去った四十年
クラネスは、財産や土地を失い、ロンドンの大勢の人々の中で孤立しています。夢について書いたものを笑われ、やがて作品を他人に見せることも、書くこと自体もやめてしまいます。現実に歓迎されない経験が、彼を夢へ向かわせる背景として置かれています。
ある夜、彼は生まれ育った屋敷と村を夢に見ます。村から先へ進むと、世界の終わりのような深い空間が開け、その暗がりの向こうに海と雪山を背にした都市が現れます。目覚める直前の短い眺めだけで、彼はそこがセレファイスだとわかるのです。
その理由は、都市を初めて見たわけではないからです。幼いころ、海風に吹かれて眠った夏の午後に、彼はすでにそこを訪れていました。大人になった彼にとっては四十年ぶりの再会ですが、夢の都市は失われた時間をそのまま保存しているように見えます。
ここで印象的なのは、未知の異世界を征服する冒険ではなく、知っていた場所を取り戻す旅として都市が現れることです。昔の道や風景が変わってしまう不安を持つ読者には、変わらない町の魅力がよくわかります。ただし、それは現実へ戻る足場にもなるとは限りません。
年を取らない都市――城壁、神殿、港の風景
再訪を果たしたクラネスは、川を渡り、木立を抜けて都市へ入ります。大理石の壁は汚れておらず、磨かれた青銅の像にも曇りがありません。城壁の衛兵も昔のままの若さを保ち、商人や隊商の人々は、彼がずっと離れていたとは思っていないように迎えます。
青緑色の神殿で、祭司たちは、この地には時間がなく、永遠の若さだけがあると説明します。これは作中人物が語る夢の国の性質です。現実に時間の停止する場所が存在することの証拠として扱う記述ではありません。
都市の魅力は神殿だけではありません。柱の並ぶ通りの先には、遠方から来た船が浮かぶ港があります。海辺にはアラン山がそびえ、斜面には木々が揺れ、白い頂が空に届きます。人工の建造物と海、山が一つの眺めに収まることで、町全体が憧れの風景として組み立てられています。
年月による変化がないために安心できる一方、そこで暮らす者たちは、現実のクラネスが失った時間を共有していません。読者の立場からは、温かい帰郷の場面の中に、誰とも同じ時間を生きていないという隔たりを読むこともできます。これは都市の設定そのものと、その設定から生まれる読後の解釈を分けた見方です。
海を渡る船が、そのまま空へ進む
クラネスは、幼いころに乗りたかった船を求め、船長アシブと再会します。船長は昔と同じ場所に腰を下ろしており、ここでも長い不在は問題にされません。やがて船は港を離れ、海と空の接する彼方を目指します。
水平線に達しても航海は終わりません。船はそのまま空へ浮かび、薔薇色を帯びた雲の間を進んでいきます。船底の下に見えるのは、遠い土地や川や都市です。水上から空中へ移る瞬間を大きな障害として描かないところに、夢の世界ならではの自然さがあります。
目的地は雲の都市セラニアンです。セレファイスとセラニアンは、名前が似ていても同じ都市ではありません。前者は海辺の港町、後者は航海の先にある雲の都市として登場します。セラニアンの桃色の大理石という描写を、セレファイス全体の建材にそのまま移すのも避けたい読み方です。
しかし、目的地が見えたところで音が響き、クラネスはロンドンの屋根裏部屋で目を覚まします。海と空を自由に渡れたはずの旅は、目覚めという小さな出来事で途切れます。夢の中での広さと、戻った部屋の狭さが、強い落差をつくる場面です。
帰り道がわからない――夢は思いどおりにならない
その後、クラネスは何か月も都市を探しますが、見つけられません。夢を見る力があっても、目的地を選べるわけではないのです。他の美しい土地を訪れて一時は心を奪われながら、彼はやはりセレファイスへの道を求め続けます。
探索の途上では、住人の見当たらない庭園や、滅びた都市の気配を帯びた風景にも出会います。冷たい高原レンの僧院や、黄色い仮面をつけた高僧も短く登場します。ただし、この短編だけでは、その人物の正体や他の怪異との関係を体系的には説明していません。
固有名詞が出てくるたびに、後の作品や別の創作者による設定を当てはめると、原典が残した不明瞭さが薄れてしまいます。本作では、名前だけを知っても道案内にはならないことが大切です。読者もクラネスと同じように、断片的な地名の間を移動することになります。
彼は眠る時間を増やすため薬物に頼り、やがて生活も住まいも失います。作品中のこの経過は、夢へ近づくための実用的な方法ではなく、現実の基盤が崩れていく描写です。都市の美しさを語るときにも、その代わりに彼の生活がどうなっているかを見失わない必要があります。
結末の二重性――夢の王と海辺の身体
ついに、セレファイスから来たという騎士たちがクラネスを迎えます。騎士の長は、夢の国をつくったのはクラネス自身であり、そのため彼を永遠の主神として迎えるのだと説明します。憧れて探していた都市が、実は彼の夢に由来していたと示される場面です。
一行は故郷へ向かいますが、通過する村々の姿は、時代をさかのぼるように変わっていきます。かつて夜に通った境界が今度は光に満たされ、その先に再びセレファイスが現れます。物語は、クラネスが夢の領域を治め、二つの都市に宮廷を置くと語ります。
その直後、現実側の海辺には、放浪者の身体が波に翻弄されているという描写が置かれます。夢の中の永続する幸福と、現実に残された死は、同じ終わりの中に並んでいます。身体の状態を細かく描き直さなくても、この視点の切り替わりだけで、それまでの輝く風景は違った重さを持ちます。
この結末を、夢の勝利だけ、あるいはすべてが無意味だったという否定だけにまとめると、二重の語りが持つ緊張が失われます。夢の王としてのクラネスが語られ続ける一方、現実の死も取り消されない。この両方を残したまま読むことが、本作を単なる幸福な異世界行きにしない手がかりになります。
混同しやすい地名と、ほかの怪異との違い
結末にはインスマスという地名が現れます。ただし本作の道筋はロンドン、サリー、故郷の村と続き、海峡の潮が記されるイングランド側の文脈です。この名前だけを根拠に、後年の別作品で有名になる港町やその住民の設定を持ち込むことはできません。
また、セレファイスは地上の遺跡を調査してたどり着く都市でもありません。『無名都市』の地下へ進む探索と比べると、本作の入口が記憶と夢の中にあることがはっきりします。同じ都市の怪異でも、近づき方が異なるのです。
ボクルグとサルナスの物語が、都市の繁栄と忘却、そして破局へ向かうのに対し、セレファイスは変化しない都市へ帰ろうとする個人を描きます。二つを並べると、ラヴクラフトの都市が恐ろしい廃墟だけでなく、失いたくない美の容器にもなっていることが見えてきます。
セレファイスの不気味さは、町が訪問者に牙をむくことにあるのではありません。帰りたい場所があまりに美しく、そこだけが自分を迎えてくれるように感じられること。その魅力と現実の孤立が同時に描かれるため、港の明るさにも、目を離しがたい寂しさが残ります。
参照資料
H. P. Lovecraft, “Celephaïs” 英語本文(The H. P. Lovecraft Archive)。都市と人物の描写、航海、探索、結末の確認に使用しました。本文は原典をもとに独自に要約・考察しており、既存の日本語訳の転載ではありません。
“Celephaïs” Data Page(The H. P. Lovecraft Archive)。初出誌と掲載年月の確認に使用しました。画像は作品に着想を得た想像図であり、作中の景観を正確に再現したものではありません。


