エーリッヒ・ツァンの音楽とは?原典の屋根裏・窓の外・失われた手記を読む

屋根裏で擦弦楽器を弾く老音楽家と、手記の紙が吸い込まれていく暗い窓のイメージ クトゥルフ神話・怪奇文学
ラヴクラフト『エーリッヒ・ツァンの音楽』に着想を得たイメージです。屋根裏、演奏、窓と手記を組み合わせた想像上の構図で、人物や楽器、作中の一場面を正確に再現したものではありません。

夜ごと屋根裏から聞こえる、これまで耳にしたことのない音楽。奏者は人に聞かせることを恐れ、たった一つの窓へ目を向けます。『エーリッヒ・ツァンの音楽』は、H・P・ラヴクラフトが描いた、音と空間の怪異をめぐる短編です。

この作品の不気味さは、怪物の名前や姿を知ることで解消されません。語り手は異様な演奏に立ち会いながら、その理由を最後まで十分に知ることができず、かつて住んだ街路さえ見つけられなくなります。本記事は英語原文をもとに、物語の出来事と読み取れる解釈を分けて解説します。以下、結末に触れます。

作品の位置づけ――創作としての音楽の怪異

原題は『The Music of Erich Zann』です。H. P. Lovecraft Archiveの刊行記録では、初出は『The National Amateur』1922年3月号と確認できます。実在の音楽家の体験記や事件の記録ではなく、ラヴクラフトの創作小説です。

クトゥルフ神話に関心を持つ読者にも、作者の宇宙的恐怖の表現を知る入口になる作品です。ただし、この本文にクトゥルフなどの神格名が登場するわけではありません。後世の関連作品やゲームで与えられた説明がある場合も、それを原典の答えとして持ち込まず、まず何が書かれているかを確かめる必要があります。

戻れない街路、オーゼイユ街

語り手は、大学で形而上学を学んでいた貧しい学生です。回想の始まりから、彼は昔住んでいたオーゼイユ街(Rue d’Auseil)を探しています。現代の地図だけでなく古い資料にもあたり、自分の足で町を調べても、家も街路も再発見できません。そこを見たという人にも出会わないのです。

一方で、記憶に残る道筋は驚くほど具体的です。暗い川と石橋、川沿いに立つ倉庫、急坂、階段、傾き合う古い家々。街路の上端には蔦に覆われた高い壁がありました。語り手はその場所を大学から徒歩で行ける範囲として思い出していますが、知っているはずの町の地理につなぎ直せません。

彼自身、当時は心身の健康を損ない、記憶も断片的だと認めています。だからといって、本文は出来事のすべてを幻覚だったと結論づけてはいません。詳しい感覚の記憶と、場所を確かめる手段の欠如が並び、読者はどちらか一方だけを選んで安心することができません。

ツァンは誰で、何を演奏していたのか

語り手の住む家の屋根裏には、ドイツ人の老音楽家エーリッヒ・ツァンが暮らしていました。彼は話すことができず、必要なことは身振りや筆談で伝えます。夕方は安い劇場の楽団で働き、帰宅した夜にも孤立した部屋で演奏していました。

楽器は原文でviolと呼ばれています。ここではヴィオール系の擦弦楽器として扱い、現代の特定の楽器モデルまで決めつけません。怪異を読み解くためには、弓で弦を奏でる一人の演奏から、通常では説明しにくい響きが生まれるという描写が重要です。

語り手は階下で聞こえる音楽に魅了され、ツァンに頼んで演奏を聞かせてもらいます。けれども、目の前で弾かれる曲には、夜ごと聞いていた奇怪な旋律が含まれていません。その旋律をもう一度聞きたいと求め、口笛でまねると、ツァンは恐怖をあらわにして制止します。

ツァンは他人のために演奏すること自体を嫌っているのではありません。客に聞かせられる曲と、他人が再現することさえ恐れる音が分かれています。音楽を単に美しいか不気味かで分けるだけでは、この反応の違いは捉えられません。

屋根裏の窓は何を隠していたのか

ツァンの部屋は街路の高い位置にあり、窓は上端の壁を越えて向こう側を見渡せる唯一の場所と説明されます。語り手はそこから屋根や灯りの広がる町を見ようとしますが、ツァンはそれを激しく止めます。

後に渡されたフランス語の書き付けで、ツァンは自分の孤独や恐れを説明し、先ほどの振る舞いを謝ります。そして、夜の演奏が聞こえない下の階へ移ってほしいと頼み、家賃の差額を負担するとまで申し出ます。語り手は実際に階下へ移りますが、好奇心は消えず、屋根裏の戸口で聞き耳を立てるようになります。

ここで窓は、眺めを楽しむための建具から、触れてはいけない境界へと変わっていきます。ただし、この時点で何かが窓を出入りする姿を見たわけではありません。ツァンの反応と語り手の期待のずれによって、見えない向こう側の存在感が強まります。

最後の夜――演奏は何のためだったのか

ある夜、異常な演奏と苦痛の叫びを聞いた語り手は、ツァンの部屋へ入ります。老音楽家は、自分を悩ませる驚異と恐怖について、ドイツ語で詳しい説明を書くので待ってほしいと告げます。言葉によって謎が解かれそうになる場面です。

しかし手記が書き進められている途中、ツァンは窓の方を気にし始めます。語り手にも、遠くから低い音楽の一音が聞こえたように感じられます。ツァンは筆を置いて楽器を取り、激しく演奏し始めました。

語り手には、その演奏が何かを遠ざけるため、あるいは別の音をかき消すための行為に見えます。音楽を防御として読む根拠は、この語り手の観察にあります。一方で、何を退けようとしているのか、どのような仕組みで効くのかは分かりません。本文は再現可能な呪文や儀式の規則を示していないのです。

さらに、そのとき語り手が聞き分けたのは、劇場で人気のある激しいハンガリー舞曲でした。最後の演奏をすべて未知の魔曲としてまとめると、この具体的な記述を落としてしまいます。ツァンが何を弾いたかと、なぜ弾かなければならなかったかを分けて読むことが大切です。

窓の外に町はなく、手記は失われる

窓の鎧戸が風にあおられ、ガラスが割れます。吹き込んだ風は、ツァンが書いていた手記を窓の外へ運び去りました。語り手は追いかけますが、紙を取り戻すことはできません。説明を期待した直後に、その説明そのものが失われます。

そして窓から外を見た語り手は、あるはずの町並みや灯りを見ません。そこにあるのは、運動と音楽に満ち、地上の何ものにも似ない、限りのない暗い空間でした。本文はこの景色を描きますが、そこに住む存在の姿や名前を一覧にして示してはいません。

ろうそくが消えた後も演奏は続きます。語り手がツァンに触れると、顔は冷たくこわばり、息をしていません。それでも弓の動きと楽器の音は止まらず、語り手は恐怖の中で部屋を逃げ出します。何がツァンを動かしていたのか、いつその状態になったのかについて、確定した説明は与えられません。

外へ逃れた語り手が記憶しているのは、風がなく、月が出て、町の灯りが輝く光景です。屋根裏の暴風と窓の外の空間は、逃げ帰った日常の街と一致しません。そして、その家へ戻る道も再び見つからなくなるのです。

原典で分かること、分からないこと

原典から確認できるのは、ツァンが窓と特定の音を恐れること、語り手が演奏を何かへの抵抗と捉えたこと、窓の外の景色が町の地理に収まらないことです。手記は存在しますが、語り手にも読者にも内容が伝わる前に消えています。

そのため、窓の向こうを特定の神格の領域と断定したり、ツァンがその神格を召喚したと説明したりすることは、この短編の記述だけではできません。関連創作やTRPGの設定を楽しむ場合には、作品名や版を添え、そこで追加された解釈として区別することになります。本記事では、そのような後世の設定を原典の事実に加えていません。

音を聞いても、その意味は分からない。場所を覚えていても、戻ることはできない。説明文が書かれても、読むことができない。この三つが重なる構成に、作品の恐怖を見いだすことができます。これは音楽の能力を数値化した設定ではなく、語り手が確かな知識へ近づくたびに、それを失う物語としての読み方です。

関連する怪異を読む

人間の知る地理の奥に異質な空間が広がる作品としては、無名都市も比較できます。こちらでは地下の探索が進むのに対し、「エーリッヒ・ツァンの音楽」では日常の住居にある一つの窓が境界になります。

芸術と人間ならざるものの関わりを読むなら、『ピックマンのモデル』の食屍鬼も関連します。ただし、同じ作者が芸術を扱っていることから、二作品の怪異を同一の存在とみなすことはできません。何が最後に証拠として残るかを比べると、それぞれの違いが見えてきます。

参照資料

H. P. Lovecraft「The Music of Erich Zann」(H. P. Lovecraft Archive公開の英語本文)。本記事の筋と人物、楽器、窓、手記、結末の確認に用い、独自に要約・解説しました。現代日本語訳やゲーム本文の転載はしていません。

H. P. Lovecraft Archive「Data Page for “The Music of Erich Zann”」。初出誌と刊行年月の確認に参照しました。

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